同じベトナム語なのに、ハノイとホーチミンでは発音も単語も違う——そんな体験をする旅行者は少なくありません。南北に長いベトナムならではの方言の違いを見ていきましょう。

発音の違い

教科書やニュースで使われる標準語は、首都ハノイを中心とした北部の発音がベースになっていることが多いです。一方、ホーチミンを中心とした南部では、声調やいくつかの子音の発音が異なり、同じ単語でも耳で聞くとかなり印象が変わります。旅行者にとっては、南部で耳にする言葉の方が柔らかく聞こえる、と感じる人もいます。

単語も違う、身近な例

意味 北部(ハノイ) 南部(ホーチミン)
お椀 bát(バット) chén(チェン)
果物 quả(クア) trái(チャイ)

日常的によく使う単語にも、こうした南北差があります。どちらか一方だけを覚えれば旅先で困る、というほどの違いではありませんが、知っておくとメニューや看板を見たときに「あ、これは南部の言い方だ」と気づける楽しみが増えます。

人称代名詞にも南北差がある

方言の違いは単語や発音だけでなく、日常的に使う人称代名詞にも表れます。「私」を意味する言葉ひとつをとっても、地域や場面によって選ばれる単語のニュアンスが微妙に異なることがあります。こうした細かな違いは、アジコトのような教材で学ぶ標準的な表現からは見えにくい部分ですが、現地のドラマやニュース番組を南北それぞれ見比べてみると、話し方の「色」の違いが感覚的につかめるようになります。方言の違いを楽しむこと自体が、ベトナム語学習の奥深さのひとつだといえるでしょう。

旅行者はどうすればいい

アジコトで学ぶ標準的な言い回しは、南部でも北部でも問題なく通じます。方言の違いに神経質になる必要はなく、通じなければジェスチャーや指さしで補えば大丈夫。むしろ「南と北で言葉が違うんですね」と話題にすると、地元の人との会話のきっかけになることもあります。

アジコトのレッスンでは、こうした標準的なフレーズをベースに学んでいきます。

漢字からローマ字へ――「クオック・グー」の成立

今のベトナム語がローマ字(アルファベットに声調記号を加えた表記)で書かれているのは、実は比較的新しい歴史です。かつては漢字や、漢字をもとにベトナム独自に作られた文字「チュノム」が使われていましたが、17世紀ごろ、宣教師によってラテン文字をベースにした表記法「chữ Quốc ngữ(クオック・グー=国語)」が考案されました。この表記が20世紀に公式な国語表記として採用され、南北の発音の違いはあっても、文字そのものは全国共通のローマ字で統一されているという、方言差と文字統一が同居する珍しい成り立ちを持っています。

6つある声調が、南部では5つに聞こえる理由

ベトナム語には「声調(トーン)」と呼ばれる音の上げ下げが標準で6種類あり、同じ綴りでも声調が違えば意味がまったく変わります。北部の発音ではこの6つの声調がすべてはっきりと区別されるのに対し、南部の発音では6つのうち「尋ねる声調(hỏi)」と「転がるような声調(ngã)」が合流し、実質5つの声調として発音される傾向があります。たとえば「あなた(お姉さん)」を意味する「Chị」は、北部では短く切るように「チッ」と発音されるのに対し、南部では少し伸ばして「チィ〜」と発音されることが多いのも、この声調の違いによるものです。さらに子音でも、北部の「ザ行」に近い音が、南部ではそり舌を使った「ラ行」に近い音になるなど、耳で聞く印象が変わる要素がいくつも重なっています。旅先で「なんだか聞き取り方が違う」と感じたら、この声調と子音の違いを思い出してみると、方言の面白さがより深く味わえます。

ローマ字表記を体系化した、一人の宣教師

「クオック・グー」の成立には、一人の宣教師の名前が深く関わっています。フランス出身のイエズス会宣教師アレクサンドル・ド・ロードは、1624年にインドシナ(コーチシナ)へ渡り布教活動を行うなかでベトナム語を学び、1651年に『ベトナム語・ポルトガル語・ラテン語辞典』を編纂・出版しました。この辞典で使われたローマ字表記が、今のクオック・グーの直接のルーツとされています。ただし、ド・ロード一人がゼロから作り上げたわけではなく、彼以前にベトナムで布教していたポルトガル人宣教師たちの表記の工夫を体系的にまとめ上げた、という側面が大きいというのが定説です。宗教を広めるための実用的な必要性から生まれた表記法が、350年以上の時を経て国の正式な文字として定着したというのは、言語の歴史としてもなかなか興味深いエピソードです。

南部・北部だけじゃない、「中部方言」という第三の選択肢

南北の違いばかりが注目されがちですが、フエをはじめとする中部地方には、南部とも北部とも異なる独自の発音や語彙を持つ「中部方言」が存在します。声調の付き方や母音の発音に南部・北部いずれとも違う特徴があり、ベトナム人同士でも中部の言葉は聞き取りにくいと感じる人がいるほど、地域色の強い方言として知られています。かつて阮朝の都が置かれていたフエは、宮廷文化の中心地として独自の言語文化が育まれてきた歴史もあり、方言の違いを味わう旅先としても魅力的な街です。標準語を学んでいれば意思疎通に大きな問題はありませんが、南部・北部のイメージしかなかった人にとっては、中部方言の存在を知ることも、ベトナム語の奥行きを感じるきっかけになります。

「はい」の言い方にも表れる、もうひとつの南北差

意味 北部でよく使う 南部でよく使う
はい(丁寧な受け答え) vâng(ヴァン) dạ(ヤー)

目上の人への受け答えに使う「はい」にも、地域による好みの違いがあります。北部では「vâng(ヴァン)」がよく使われるのに対し、南部では「dạ(ヤー)」を使う人が多く、特に南部では若い世代が目上の人に話しかけられるたびに「dạ」を挟むほど、会話の随所に登場する言葉です。どちらも全国で通じる丁寧な返事なので、耳にした地域の言い方を真似てみるだけでも、現地の人との距離が少し縮まります。

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参考

本記事で紹介した情報の主な出典:

  • アレクサンドル・ド・ロード『ベトナム語・ポルトガル語・ラテン語辞典』(1651年刊)― クオック・グー(ローマ字表記)の直接のルーツとされる文献

よくある質問

Q. 北部の言葉を覚えれば南部でも通じますか?
基本的には通じます。発音や語彙の細かな違いはありますが、意思疎通に大きな支障が出ることはほとんどありません。

Q. 中部の言葉も違いますか?
フエなど中部地方には独自の発音があり、南北のどちらとも異なる特徴を持つ地域もあります。地域ごとの違いを聞き比べてみるのも旅の楽しみです。

Q. アジコトはどちらの発音で学べますか?
アジコトのレッスンは、もっとも広く通じる標準的な発音をベースにしています。まずはこの標準形を覚えるのが実用的です。

Q. ベトナム語は昔から今のアルファベット表記だったのですか?
いいえ、かつては漢字や独自の文字「チュノム」が使われており、17世紀ごろに考案されたローマ字表記「クオック・グー」が20世紀に公式な国語表記として採用されました。

Q. 声調の違いは初心者でも聞き分けられますか?
最初は難しく感じても大丈夫です。まずは標準的な発音を身につけることを優先し、慣れてきたら南部の音の違いに耳を澄ませてみると、聞き取れる幅が少しずつ広がっていきます。

Q. クオック・グーを作ったのは誰ですか?
フランス出身の宣教師アレクサンドル・ド・ロードが1651年に出版した辞典が直接のルーツとされていますが、それ以前のポルトガル人宣教師たちの表記の積み重ねを体系化したものだといわれています。

Q. 「vâng」と「dạ」はどちらを使えば失礼になりませんか?
どちらも丁寧な「はい」として全国で通じるので、失礼になることはありません。訪れている地域でよく耳にする方を真似て使ってみるとよいでしょう。